アポロ1号の悲劇

 ガス・グリッサム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの乗組員が、ケープカナヴェラルでの飛行前のテストの間に、アポロ司令船の中で火事で命を奪われたとき、宇宙飛行の歴史において最悪の悲劇の1つが1967年1月27日に起こりました。
 彼らは、最初の乗組員を乗せるアポロ飛行に備えてトレーニングしていました。そして、地球を周回する飛行任務は、2月21日に打ち上げられる予定でした。
 司令船は、実際の発射としてちょうどその時、発射台でサターン1B上に搭載されて、彼らは「プラグアウト」テストに参加していましたけれども、サターン1Bには燃料が供給されていませんでした。
 計画は、カウントダウン・シーケンス全体を通して行うことになっていました。

 1967年1月27日金曜日の午後1時に、宇宙飛行士はテストを開始するために発射台34上でアポロ1号指令船に入りました。
 多くの危険を伴わない問題が生じていて、かなり、テストが延期されていました。最終的に、通信での故障は、午後5時40分に秒読みの停止を強制しました。

 午後6時31分に、宇宙飛行士の1人、たぶんチャフィーが、「火災、炎の臭いがする」と報告しました。

 「コックピットに火が点いた」と、2秒後にホワイトが叫ぶのが聞こえました。
 炎は、秒単位の瞬く間に船室中至る所に広がりました。
 最後の乗組員との通信は、火災発生後、17秒で途切れ、続いて全ての遠隔測定を失いました。

 ハッチを理想的な状況の下で開けるには、少なくとも90秒を必要としました。
 船室が、テストのために標準圧力で純粋な酸素空気で満たされていて、全ての物質に酸素が浸透する多くの時間が船室にあったので、火は、急速に広がりました。
 それ故に、宇宙飛行士にはハッチを開ける時間も機会もありませんでした。

 悲劇の結果としてアポロ司令船に得られた変更点は、アポロ13号を除いて、ほとんど当り前のように月への複雑で危険な旅行を助けた非常に信頼できる船に結びつきました。
 アポロ計画の最終的な成功は、ガス・グリッサム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チェイフィーに対する敬意でもあり、3人の優秀な宇宙飛行士の悲劇による喪失が無駄でなかったことの結実でもありました。

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